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  • 津上弘道 Koudou Tsugami

ある肌触り——音楽と身体性

更新日:2020年5月18日

 なぜ尺八の道を選んだのか、ということをよく聞かれます。

芸術大学に入り直した経歴を聞いてなんだか納得いかない、なんで?という気持ちはもちろん想像に難くなくて、だからいつも「何か全くの初心者でも大丈夫な音楽を始めたいな、と思って大学のサークルで初めて」とか「中高は剣道をしていて、今から思えば竹つながりなんですよね」とか、駄目押しで「最初は尺八には不真面目で、部員と空気があって飲み会も楽しくて行ってたんですけど、夏の合宿で初めて吹けないのが悔しいと思ったのが契機で」とか説明してきました。

でも他の人が同じような状況だったとして、今挙げたような経緯だけで芸術大学に入り直すかと聞かれたら、僕は多分しないだろうなという気がします。

それは、上に挙げたようなことが偶発的な経緯でしかなくて、本当に自分の選択の土壌になったリアリティではないと感じられるからでしょう。


 しかし、本当に本質的な、というか、本当に決め手になったようなことはなんなんだろう、というのは自分でもあまり釈然としないというか、違和感を含んだある肌触りとしか言えないようなものだなと常々感じてきました。

捉えようにもその辺をふわふわ浮いているような。

しかし、先日とてもいい現代的な感性とリアリティに関する考察を教えてもらい、ごちゃごちゃと考えてきたことが見通せるようになったような、ようやく言葉にできる気がしたので、その肌触りについて今思うことを少々残しておきます。


 肌触りといえば、東大の二年生くらいの時、論理的に正しいことって意思決定には役に立たないじゃん、と感じていたことを覚えています。

「Aを選択するのが良い」と論理的に主張したすぐ後に、Aとは相容れない「Bを選択するのが良い」という主張を、Aを主張したのと同じくらい強力な論理で展開することは、論理的思考力や十分な根拠を用意することさえできれば、とてもシステマティックに、つまり必ずしも自分の意思を伴わずに、できてしまうじゃないか、ということです。

他人に賛成反対を割り当てられるディベートなんかではそれが顕在化しています。

つまり論理性というのは、ある前提(上の例でいう根拠)からスタートして、「論理的な思考」というあるルールに従って進めば同じ結論に行き当たるという、ただそれだけのことで(もちろんそれは強力ですが)、それ以上になにかをもたらしてくれるものではない、ということに(やっと)実感を伴って気づいたということだと思います。

それまで自分にとってリアルで身体的でさえあったものが幸せな勘違いだったということには喪失がありました。


 しかし逆に言えば、それまでの自分は、論理的であることが行動決定やその先の自分の幸せにもつながるめちゃくちゃ強力な(もしかすると普遍的な)要素である、と思っていたということでもあります。

それはおそらく学習の過程で、学習内容を身体化する、ということが起こっていたからではないかと思います。

集中して同じような問題に取り組んでいると、自然と問題を解く道筋というのが見えてくるようになります。

定型的な解法を進むにしても、人から言われたことをなぞるというよりも、そういう気がして、こうすればいいな、というのが自ら心に浮かんで解くようになります。

数学なら問題を眺めて自然に道筋が浮かぶ、英語なら英文を英語のまま理解できるようになる。

こういうことは学習が「身に付く」「身体化する」ということだと思いますが、それは同時に学習の内容が自分の価値判断やその前提にある世界認識にまでしみ込んでくるということと言っていいと思います。

自分の存在と切り離せないものになる。

そして、そういったリアルな実感を、学校教育が採用している競争原理と試験制度に無自覚に乗ることで見ていたイリュージョンだ、と捉え直すことは、それまで実感を持っていいものと思い慕っていた事柄が、万能でもなく人間的でもない、ある性質を持った通り道だと認識することです。

そう思った頃から、じゃあ自分の行動決定を支える要素というのはなんだという思いが立ち込めてきました。

通り道には始まりがあるはずです。

 尺八に限らず音楽は身体的なものだといえます。

音楽とダンスがとても密接なものである点や、音楽が歴史的にコミュニティの儀礼や宗教儀式の中から生まれたということを鑑みてもいいのですが、ここでは良い音楽が、人にとってどうしようもなくリアルなものとしての身体感覚に訴える営みである、という実感を重視したいと思います。

我々がある音楽を聞いて「良い」と思うことは、簡単に説明できるようでいて、案外説明し尽くすことはできません。

なぜなら、良いと思う対象を要素に分解してその巧みさを讃えても、じゃあその要素はなぜ巧みなのか、なぜ良いと感じられるのかということの解決には至らず、その巧みさの説明のためにさらに要素分解し、という連鎖が生まれてしまいます。

良さの原理的な説明は脇に置いておいて、その機能に注目して状況証拠的説明を加えるのがせいぜいではないかと思います。


 つまり、どこかで「良いから良いんだ」というところに打ちあたってしまう。これが論理性の打ち止めとしての、また動かしようのない実感としての身体性ということではないかと思います。

心打たれる音楽というのはそういった身体性に下りて行って、(演奏者にとってその瞬間には)それ以外ではあり得ない音をみつけてくることによって作られるものだと思います。

そうやって作られた音楽は、身体性という制約の打ち止めを通じて、それを作った人の輪郭を映し出すことになります。


 しかしそもそも、なぜ身体性というものは論理の打ち止めになるんでしょう。また、極めてパーソナルなはずの演奏者の身体性が音楽という形で表現される時、なぜ異なった身体を持つ他者の胸を打ち共感を呼ぶんでしょう。

僕は、それは人間の身体がある「制約」を伴った存在だからではないかと考えています。


 現代において、主にインターネットを前提とした情報分野において、情報や観念、価値観は一人一人が受け止めるには余りに大きいスケールで溢れています——「これだけはやっておいた方がいい○○」、「誰でも簡単に〇〇になれる方法」、「〇〇やってみた」etc... 不思議なことに、僕はネット上のそういった情報を見ると、なにか惨めな気持ちになることがあります——「そうだったらいいだろうなあ、でも自分はそうじゃない」。

観念の上では、人間は現実にはないことをいくらでも考えることができます。

しかし、そうはいってもインターネット上で氾濫する全ての主張や提案を実行することはもちろん、一つ一つに対して向き合うことさえまず不可能です。であるならば、自分が向き合うものを選ばなければならない。そのためには何らかの線引きが必要です。


 少々唐突ですが、現実には起こることのない「空想」や「妄想」と、現実に起こる可能性のある「計画」や「目算」の差はどんなものでしょう。

両者ともまだ現実にはない状態を思い描いている点ではあまり変わりないような気がします。僕にはそういった差異は、物理的にせよ社会的にせよ、何らかの制約によって生まれていると思われます。

制約によって不可能そうに思われることが前者、何らかの具体的方策を考えられそうなものが後者と位置付けられる。

それは状況に依存する結果的な性質であると同時に、分析的な見方を通してはじめて生まれる概念でもあります。


 上でも触れたように、現在の情報過多の時代においては「そうだったらいい」ことが溢れています。

そして、それを実現する手段さえ丁寧に手軽に、かつ十分に提示されていたりする。

しかし、それが実行さえすれば自分にとって良い結果をもたらすものだと感じていても、我々のできることには制約があり、全てを実現することはできない。

それは「こうだったら素晴らしいのに、お前はそうじゃない」と多方面から責められているようでさえあります。

自分が賛同する素晴らしいものが、氾濫することによって、全てを満たせない自分を苦しめることになる。

かつて悪しきものであった情報量や有効な手段・メソッドの欠乏状態が解決し、さらにそれらが氾濫することによって、まさにそれが良いものであるがゆえに、「理想的ではない自分」を人間にダイレクトに突きつける要因になってしまったという逆説。

選択肢の奔流の中で現代人は、何であるか、ということよりもむしろ、何でないのか、ということを多く選択しなくてはならない。

何を諦め、どの情報に向き合うかは今や、様々な価値観の共有とそれを実現するツールの整備によって、自分は何者なのかという自己認識の問題それ自体になってしまったように思われます。


 自分が望みさえすれば様々なよきものになれるとすれば、何が自分を自分たらしめるものとなるでしょう。

言い換えれば、あらゆる可能性が提示される中で、うまくすれば今からでもそれらを手に入れられそうな状況のなかで(現代はこんな私でもできた、というようなストーリーに事欠きません)、どうすれば自分が納得できる悔いのない選択をできるか——「なぜそれでなくてはいけないのだろうか」、「他の選択と何が異なり、どんな必然性があるのか」。

そこでは、やはり何かの制約によらなければ納得は難しいだろうと僕は感じます。


 ここで、少々日常の場面に翻ってみたいと思います。

「やるだけのことはやったから」、「ベストは尽くした」という言説は好ましくない状況に対して納得するときよく口にされることだと思いますが、そもそもベストを尽くす、やるだけやる、ということは一定の制約という前提がなければかなわないものです。

であるならば、そのような線が否応なく存在することによって、人はようやく自身の形を定めることができるように思われます。

何かに向けてできることを一つ一つ積み重ねて埋めていくと、人はどうしようもない制約に打ち当たることになり、まさにそのことによって自分が今までどのような枠組みの中にいたのかという、自分の成り立ちを実感を持って意識することができます。

そういった意味で、身体は今のところ人類が手放していない重要な制約なのではないかと思います。


 西洋では「魂の牢獄」としての身体を考えたそうですが、拠り所なく自由であることの不自由さに直面した現代において、身体的制約はある種の救いになっているのではないかと思われます。

そのような状況で、身体の制約によって形作られる人の輪郭——アイデンティティ——を鮮明に感じられるものこそが確かな実感を伴うものとして拠り所になり得るならば、ある音楽が良いものと感じられるということもまた、それが以上のような身体性に訴えるものだからではないでしょうか。


 また、身体性がアイデンティティを規定しているとすれば、音楽が他者の共感を呼ぶということも筋が通るように思われます。

というのも、各人の身体は物質的に異なるとはいえ、その基本的構造は共通していると考えられるからです。

また、現在ほとんどの人類は、地球という共通な環境に依拠して生きていると言えます——同じ重力、同じ周辺天体、大きく見れば似たような自然環境。

さらに、社会制度や文化的土壌にも共通する部分を持っていることも少なくありません。

そのような共通性から生まれる同様の身体経験が、音楽という形で表現された時、他者の体験を呼び起こし共感され得るのは自然なことのように思われます。

そのことを通して、聞き手もやはり自身の輪郭はこうで、それ以外の何者かではないのだということを認識するのだと思います。

 論理性へのイリュージョンを失って人間にとってなにか大切なものを考えたとき、音楽が制約としての身体性を通じて人の輪郭を浮き彫りにすることで人の自己認識それ自体と結びつくものであり、またその自己認識を他者と共有させ得るものだという感触が、尺八音楽を通して感じたこと、当時の自分のある肌触りの内実だったのではないかと思います。


参考:

 美術手帖 第16回芸術評論募集【佳作】布施琳太郎「新しい孤独」

https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19775


(余談)

 現代の情報氾濫を考えるとき、僕の頭にはバイキングのことが思い浮かびます。大昔はメニューの決まったコース料理しかなかった、それがメインを選べるようになった、それがバイキングでは何品でもどんな順序でも自由に選べるようになった。あれもいい。これも美味しそう。これをこう組み合わせたら?これはこうでなくちゃ、あ、でもあれも食べたい。でも悲しいかな自分の胃袋の大きさは変わっていない。とりとめのない可能性を前に、食べすぎたり選び疲れたりして、楽しむために来たのにかえってぐったりして帰ったりする。

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