最近Amazon prime で料理番組を色々みてみたりしてるんですが、そのひとつ "Eat the World" で「素材に敬意を払う」というのがいろいろな料理人の口からでてきました。
もちろんそれは生産者から素材を仕入れる料理人にとって素材自体は作り出せないもので、それなくしてはどんな料理もありえない、という趣旨ですね。
もし料理人が自分で農業からやるにしても、人間ができることには結局限りがあり、気候や土壌を思い通りにできるわけじゃないし、環境を管理することは非常にコストが大きい。
土や山や川や海を自由に作れるわけじゃないですからね。
そこから生まれる一つの大きな方向として、管理可能な狭い箱庭で詰め込めるだけ詰め込んだ集約的農業を、みたいな話になるわけですが。
(近いところで最近スーパーサイズミー2をみました。良作です。)
なんにしても原則として、一番適した環境が既にあるところで適した農業をやることに勝るものはないと思います。品質の点でも、費用対効果の点でも。
和食の基本の出汁も、近海で昆布やらカツオやらアゴがいっぱい取れるから家庭でもうまい。
イタリアのピザがうまいのはギュッとしたオリーブが育って、ゴージャスなチーズが作れて、ぬらぬらぴちぴちのアンチョビが揚るから。
モロッコで全ての食べ物の味が薄くて泣きそうになってもオレンジジュースだけは安くてうまいのは、弾けるようなオレンジがそこらじゅうでいっぱい育ってるからなんですね。
良いものは自然環境と、その中で先人が営んで世代間蓄積してきたものがあってはじめて実現する。
それに関連して思ったこと。
ここ数日のこと、音楽の完全五度音程(GとD;乙のレと甲のロ、みたいな)って本当にいいものだなと改めて思ったりしました。いまさらバカみたいですね。でもこれしかないって感じ。
自分でそれを吹いてみて、この音程差はなんでこんなに美しいんだろうと感じるんです。
でも、なんでなのか?
そこにはどうにも明瞭な理由が見つけられない。
「振動数比が2 : 3だから」?じゃあそれはなぜ美しいと感じるのか。
感覚器官の構造やら脳の機構やらから理由はあるんだと思うけど、じゃあなんでそう作られているのか?というと、自分としては "That’s the way it is" としか思えない。
よしんばこれに答えが出たとしても、じゃあ次の疑問がたちあらわれて……結局そういうもんだとしか言えないポイントにぶち当たる時がいつかくる。これは原理的なものですね。
こと音程に関する営みは結局、人間が「より単純な整数比に近い振動数比を心地よく感じる」という、もうどうしようもなくてそう感じちゃうという性質を利用して色々やっていることです。
何が言いたいというと、それは人間にとって与えられたものだということだということが、なんだかとても大事なことだと感じられる。
もちろんその上に積み上げられた音楽的蓄積は素晴らしいものですが、それが前提としている環境は人間にはどうにもならないものだし、それゆえにこの先も同じようであるかどうかわからない、管理も何にもできない。
何かの拍子に完全五度が心地よく感じられなくなったら、今まで人類が音について積みかさねてきた蓄積が灰燼に帰すのは間違いない笑
どーも、人間にはどうしようもないことがたくさんあるという感覚がとっても重要なことじゃないかなとことの節々で感じています。時節柄そういうことが多いですね。
同じようなことはありとあらゆることについて感じられることじゃないかと思います。
そのことをいう言葉は多いのになんだかどれも陳腐に聞こえてしまうけど、自分がある世界のありようの上にかろうじて立っている、それが危うくてすっごいことだなという感覚を噛み締めていきたいなあというようなことを思いました。
なんか、それを考えると、場面によって自分を装ってゆく、作ってゆくような、分裂的な自己認識って不完全でかっこ悪いですね。
対象が何であれ、いいと思うものを全力でいいと思う、支持する、それを後から後悔しないとか、そういう方がいい。
バカみたいに聞こえることを噛み締めて、その実感から自分の営みを再構成してみるとか、そういうことが自然にできる稀有な期間、そういう意味ではこれも案外、悪くないです。
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