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映画『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』をみた

チケットをもらったので『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』を観ました。


https://gaga.ne.jp/amazing-grace/


1972年、アレサがロサンゼルスはニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で二日間にわたって行ったライブ収録が映画化されたもの。

(技術的な問題によって今まで音と映像を合わせることができず、今までは音声のみ公開されていた。)


とにかく、アレサの歌声が凄まじい。


うまい下手をいえば(言うまでもなく)死ぬほどうまい。

でも何より心を打つのは、これ以上はもう上がらないでしょ、というような人間の声の天井みたいなものを、平気で飛び越してしまうパワフルさ。


天を突くようです。

まだの方はぜひ。


 

一方で感じたのは、自分が音楽だと思っている領域と、この音楽が立っている場所は、少し違うところだろうということだった。


この収録はライブであり、レコーディングであり(録り直しもある)、でも教会でのミサでもあるんだ、というようなことを、演奏と進行を務めたジェームズ・クリーブランドがライブの最初のところで言っている。


アレサの歌声は圧倒的で、突き抜けていて、力強く美しくて優しくもあり余裕もあるけど、なんだかとっても悲しい。

「人間がそこまで突き抜けられるんだ」という驚きと、「なんでそんなに突き抜けちゃったの?」という、何か後ろ暗い気持ちがいっぺんにやってくる。

どこかで「歌」というより「叫び」に聞こえてくる。


そこには、アレサ自身や、家族や、仲間や、先祖たちのどうしようもない悲しみが乗っかっているように聞こえる。

それをどうしようもなく背負っていて、でも前を向いて生きようというエネルギーがほとばしっていて、それが心を打つんだと感じる。

そこでは、彼らの歴史と信仰と音楽が、どうしようもなく不可分なものとしてある。


このミサの中心は疑いようもなくアレサの音楽である一方で、信仰がなければこの音楽もないということも確信される。

「音楽」か「信仰」か、分類できない。

そもそも切り分けようがない。


アレサが催した集まりは非常に"音楽的"であり、かつ"宗教的"でもある、なにかとてつもないもので、そして信仰を共有していない自分は、やはりすこし離れたところからそれを見ていた。


 

信仰や自分の属するコミュニティの歴史(その悲しみとか憎悪とか誇りetc.を含めて)を背負って音楽をやっている人、そういうものとして音楽を考えている人というのは、どのくらいいるものだろうか。

個人的な肌感覚で言えば、そういうものとは少し切り離されたものとして"音楽"を捉えている人が多いと思う。

やはり西洋の近代的芸術観というものの影響は大きい。

あるいは日本人が自国の歴史となんだか分断されていると言うことも原因かもしれない。


しかし、世界的に見た音楽の出自は社会的な儀礼や儀式、信仰と結びついたものが多いし、音楽を行う態度は信仰のそれと似ている気もする。

突き詰めれば「信じるか信じないか」「行うか行わないか」といったような二択に行き当たる。

それ以上分解できない二択。


そして、僕が大好きな民族音楽や宗教音楽の力強さやきらめきというのも、音楽を含む営みをあまり切り分けず、いろんなものがくっついているところにあるように感じている。

そこに土地や時代や人のリアリティを感じるからだと思う。


そんなところに光を当てたら、自分はえらく切り分けられた概念の範囲で音楽を考えているものだ、ということが逆照射された。


切り分けることは楽ちんである。

要するに甘いのだ。

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